近くの歴史的建造物!
こんにちは!
GWはいかがお過ごしでしたか?
ケアーズ三宮はGW関係なく、全力で営業しておりました!^^
さて、今日は、ステーション近隣の歴史的建造物をご紹介したいと思います!
ステーションから、徒歩30秒ほどの距離にある「旧西國街道」の指標。
毎日、通る度に気になっていたのですが、初めて立ち止まってみました。
ほぉ~…こんな歴史あるものだったんですね!
江戸時代に整備された「街道」の一つで、この旧西國街道は、西宮~下関までを通っているようです。
詳しくは、こちら↓(Wikipediaより抜粋)
『江戸時代には、「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたともいえる。街道には宿場(宿駅)が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。
江戸時代の道路として、当時、西国街道と呼ばれた山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関(あかまがせき)に至る道として再整備されたものである。幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道は脇往還に位置付けられることとなった。この街道は、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。下関から関門海峡を越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路でもあった。これらのことは寛永10年(1633年)の幕府巡視使の巡視を契機としたが、寛永12年(1635年)参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃まで前述の京都 – 西宮間は山崎街道(唐街道と山崎通り)、そして西宮 – 下関間を狭義の西国街道(山陽道)、大坂 – 尼崎 – 西宮間は中国街道などと呼称される。長州藩は、整備に力を注いだ。慶安2年(1649年)の長州藩が幕府へ提出した絵図(正保国絵図)には、山陽道に30か所の馬継ぎを設置したことが記されている。』
江戸時代から続く道が、今も使われているなんて、不思議な感じですね。
江戸時代なんて教科書の中の出来事のような感じですが、歴史はが積み重なって今があることを実感。。。
今後も、何か見つけたらアップしていきますので、お楽しみに!